if文は最小構成要素か?

最近勉強する事が多くてですね。私の調べたい事が調べられないです。
勉強していると言っても所謂実学というやつです。私が"実利教徒"と心の底で呼んでいる人達のルールに則った学びです。大枠ではなく個別、全体ではなく部分、一般より特殊を重んじ、そのスキーマで見る人達ですね。基本的にいわゆる"社会"とかと呼んでいるものは実利教徒の論理が正義です。頭の中でシミュレートしましたが、そうですね、実利教徒の反対は…なんでしょうね。遊学教徒?二者の対話は成立しそうもありません。どちらかが正しいかではなくソリが合わない。ただ私も霞を食らう仙人にはなれない事ぐらいは承知しているので実利教徒の論理に従っています。

ただ最近ふと見返すと自分がバカになっているんじゃないかと思います。最近変な話、自分自身の過去の記事を見て再勉強している様な状態です。まだ理解していないチューリングの論文を理解したいですからね。今の私はまず無理で、一旦過去の私のポテンシャルまで戻さないといけない。

近況はこの程度にしましょう。最近……というより大分昔から思っているのですが、論理において"if"、選択って作業はこれ以上分解できない論理の最小構成要素の1つなんじゃないでしょうか。別にここから実利的な話には繋がりませんよ。素朴な疑問、遊学の話です。

私は前「0と1の間が遠い-訂正」である数が与えられた時、その数が0なら0を、0以外なら1を返す式を作りました。それを更にこねくって数式によるif文のようなものを作りました。ただ私はこの式は好きではありません。
なぜなら数式の中にわかりやすい所で言えば"絶対値"という、ある数Xが0未満なら-Xを0以上ならXを返すというif文、言い方を変えると選択を行う作業を最初から含んでいるからです。あの式は何も創造していません。絶対値という最初から選択を含む作業を扱いやすいように拡張しているだけです。そのコア部分は絶対値という選択作業、if文が既に含まれているのです。

絶対値というとふと、そんなもん
\[ |x| = \sqrt{x^2} \]
で作れると思ってしまいますが。ルートというのは解を2つ持ちます。つまり
\[ \sqrt{x^2} = \pm x \]
です。

もし二乗とルートで絶対値を作ろうとするならば、その中には結局正の数の解と負の数の解の内、正の数の解を取捨選択するという選択、"if"が含まれているのです。

しょうがないと思い「絶対値」を参照すると
\[ {\large |x| := max\{x,-x\} = \left\{\begin{array}{cl} x & (x \geq 0) \\ -x & (x < 0) \end{array}\right. } \]
この様に選択が含まれているんですよね。

選択というのは好きではありません。何と言えば良いか。恣意的な作業に思え、またこれこそが知能だと言えそうな感じがするからです。もっと機械的な、私の理想の流れで言えば1方向の流れだけでif文と同じ動作を作れないものかと思うんですよね。

現実的に作れるかは別としてある水が流れるパイプに対してただその流れる水圧の力によってのみ流れるパイプを分岐させる構造は思いついたのです。多分現実の物質にあてはめるとダメダメでしょうが。ただきちんと物理をやっているとある一方向の流れによってパイプによる水路が切り替わった時、そこに何か矛盾を発見する事ができるのでしょうか?

ある一連の流れからは分岐はできそうだ。しかし分岐や選択という作業を含まない式である場合、その式の変数に数字を入れた時、実引数と解は必ず一定の関係を持っている。

選択というのは本当に分解ができない知能なのでしょうか?物理的な機構ならばいくつかただの媒体の何らかの力の強弱によって自動で分岐させる仕組みは作れそうですし、実際そんな機構の製品は存在します。
論理式等と別にして、なんというかアルゴリズムの基礎を知る必要がありそうです。どうしても"選択"という行為が異質に感じるのです。私は好きじゃないなぁ。

そう数に限りがあるならば、限界値を設けるならば、それこそコンピュータの行うビット計算によって機械的に絶対値が作れるのです。しかし無限を想定した時、霊的な要素が入ってくるのです。これはどちらにしろ私にとっては喜ばしいものではありません。
が……人間の知能においても数値に限界を設けて、後は限界ある数値の組合せと解釈によって無限を想起する事が可能なのでしょうか?では任意の値を限界値とした基底の公理を設ければ1つの機械的な流れによる絶対値及び無限が作れるのでしょうか?

とは言っても数の限界を設けた場合、それはそれ自体が"選択"なんですよね。つまりある桁以上の数は切り捨てるという"選択"です。符号付きビット計算なんて正にそうでしょう。つまり物事の限界によって、その限界が"選択"と同等の動きをするとも考えられます。
機械的限界、物理的限界が"選択"の機構を果たす訳です。
もしそうならスケールダウン、もしくは限界の枠組みを作る事による"選択"の機能性、これが実学の持つ特性と"社会"において力を持つ理由なのかも知れません。

人間には端から寿命という限界がある訳ですしね。

興味があります。

そういう遊学の旅に出たいですね。実学ねぇ。破綻しているのを運用で無理矢理こねくってスケールダウンしている感があって汚い印象を受けるんですよね。まぁ……ご飯は最後に汚いウンコになる。ウンコの元を得る為の勉強だから汚いのも無理ないかもですけど。

テーマ:あれこれ - ジャンル:学問・文化・芸術

技術を持つデメリット

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情報の選択と価値について

人はいつだって他人から与えられた情報より自分で得た情報に価値を見出だします。

それは他人に広く与えられた情報は大勢も知っている情報である為、その情報を得ている事による優位性がないからです。

クロード・シャノンが上げた情報量の概念はまことに素晴らしく、単純化して言えばシャノンは確率が低い情報程価値があると述べました。

それはもちろん情報の圧縮アルゴリズム等数学や工学に深く関わる概念ではありますが、同時に人文的な考えにも転用は可能であると考えます。

確率の高い情報とはその情報との遭遇率にもあてはめる事が可能でしょう。受動的に特にその情報を得ようと行動しなくても手にはいる情報は遭遇率が高い、ありふれた情報であり価値が低いのです。

しかし自分から能動的に得ようとして得た情報は遭遇率が低い価値のある情報なのです。

ここでの論では価値と確率がほとんどイコールになっております。その為、情報の真偽のようなもっと一般的な意味で言う「情報の価値」とはいささか様相を異にするものであると存じます。

しかし情報の真偽を確認する為にはその情報に関連する実に多くの他の情報が必要となります。数学のような論理的思考で論の組み立てが可能である分野に置いても公理等の前提となる情報が必要なのです。

また情報とは多義的でもあり定義の塊ではありません。論理から組み立てられた入力と出力の関係、これも情報です。ちょうどある関数に名前を付け、その関数を指名する事で内部の論理の結果やその論理の真偽証明をパッケージ化したようなものです。

人が得られる情報には限度があります。また分野も多岐にわたるでしょう。その為に、人が得られる情報のほとんどはその人自信の手で真偽の証明、つまり「確率低い情報」が本当に「有意義な情報」であるかを見極めるのが困難になるのです。

そうして見ると個々人が得られる情報、特にその真偽を見定める術がない情報においては遭遇率の低さによってのみ価値を判定してしまう機会が多いのではないでしょうか?

もちろんこの論には暴論が含まれています。私自身の思考を鑑みても人は単なる遭遇率の低さで価値を見いだす訳ではありません。真偽を判定する術を持たない場合はとりあえず真偽判定をせずに保留する思考が働きます。

ならば人が遭遇率の低さだけで価値を見いだそうとした時はそこに何らかの真偽判定とは別の価値判定のロジックがあるのではないかと考えます。

まだその判定ロジックがなんたるかはわかりません。しかし私は欲望や願望がその判定ロジックを作っているのではないかと考えます。

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Simeji Dali Simeji Dali

美術史を学んでいます。
専門は「日本のシュルレアリスム」ですが、20世紀美術全般に興味があります。

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