随想

僕は知見を広めた。やはり僕はとてもよく見積もって中の下、下の上の技術力しか持たない。

定義が曖昧だが、僕の好きなアルゴリズムは数学や情報学科ガチ勢には負ける。……いや8年前の方がそっちはできたなぁ。まぁアルゴリズムで飯食える程のアルゴリズムにおいての技術力はなかったからこれが現実だ。

次、サラリーマン的な知識勝負。ガジェット知識力とでも呼ぼうか。仕組みは知らんが便利な道具を使う能力、まぁ僕は圧倒的に劣る。僕は新しいガジェットやゲームを与えられなかったが故にそこに対する興味と意欲を失っている。

総合して下の上ぐらいなのでしょう。

あぁ僕の立場じゃ言えない。言えない。だが、この自戒だけで結論が出た。僕の中では。

と、焦りたくなるが果たしてどうか。同レべルのXXXxもなんだかんだで腐る程ある気はする。

僕はただ意識が高い系で背伸びして知見を広めにいったが故に打ちひしがれているのだろうか。

まぁいい。僕はまだ死にたくないからアレだが、正直何もかも投げ出したくなる。多分答えなんて無いのだろう。

理想論と現実。現実と理想論。虚飾。中二病かと言いたくなるが考えれば考えるほど生きる者が勝ちで真の勝利は……やめておこう。今の時代は禁句だ。視点を変えれば残酷だし。

色々なジレンマを見ながらどうあがいても、そしてあがく必要もない程、人間は生物なのだと言う結論に至ります。そのこころは、最早この時代言う事はできなくなった論説。言っても僕に、そして言った人間には利にならない。人間は生物であると考え生物として考えれば考える程、そのこころを言う事は今の時代において利がない。

きっともっと高尚な理由で消えた考えもあるのだろうなぁ。

利がないとは理解を期待する他人の多寡ではない。理解されようとも利がない。言ってしまえば……言えないなぁ。まぁ理解されても利がない。不理解、勘違い、信条の違い、自分も理解しない意味の分からない正義をかざして自分だけは天国に行こうとする者たち、その者の出現だけを不安がる。

まぁいいや。ただ僕は人間社会も、考えれば当たり前、生物のルールに何枚ものオブラートを包んで生まれた制度と思います。そして人間が他人事であれば純粋に面白い事は、その何枚にも生物の本懐の上に重ねられた、良い日本語が浮かばないが、"人工物"の制度、それを利用し、そしてその人工物を巧く利用する事にこそ、ある種生物としての本懐を有利に進められる制度ができている。それがとても人間が他人事なら興味深い所です。

ただこの制度の上で進むゲームは選択を誤れば最悪死ぬし、選択を誤らなくても確率で死にますからね。僕はまだ死にたくないから、あれね。

生物の本懐か。僕はもう日本のような国での生き方から脱せられないが……いや日本だから今も生きていたのかも知れない。

あんまり深く考えると「なんで僕は生きたいのか」って疑問に入りそう。

まぁ過去は清算できないし、その過去が心を傷付ける。満たされない過去が生きる動機なのかも知れません。そう死ななかったからこそ今生きている程度の満たされない過去。

随想だから結論も一貫性もない記事です。ただ最後に面白い所に思い至った。明治とかの小説に書生なる者が出てくる。
私の恩師が言ったのさ。全てが満たされた先の究極の娯楽は人間を飼う事だと。奴隷じゃない。書生。その人生をむしろサポートしているし、視点によっては人間に対する投資と断ずる事もできる。

だがなるほど満たされない過去。なら他人の過去を操作する事もまたその埋め合わせなのかも知れない。消すのではなく埋める。自分の得られなかった者を利他的に与える。なるほど、それは生物の本懐と外れた人工物の制度のゲームだ。
しかしながら人工物の制度により満たされないという認識を与えられた過去に対し人工物の制度によって穴埋めする事は理に適っている。そして何よりも力の誇示と確認の一つでもある。

だが、今はどうかな。見返りがない現代において。この利他的行為の利とは?

僕がこれを言うにはぎりぎりの歳か。僕は与えるべき者と与えられる者の2つに位置する。

人間が他人事であればなぁ。きっと愉快な生物なのだろう。でも僕にとって人間が自分事だからこんなに興味を惹くのかも。

人間より高度な知能をもった生物から見れば人間の社会は、我々が見るチンパンジーの社会と同じなのかも知れませんね。私は人間への興味に対するサブ興味としてチンパンジーに興味を持つ。私にとって独立している興味は猫、でも猫は家族だったから他人事というには近い。自分事だから興味を持つのでしょう。そして自分事は楽しみと共に時にはそれ以上の苦痛を与えます。

私は飼い猫が死んだ時感動なんかしなかった。ただ悲しみ、日常を繰り返す世界全てが憎かった。それも言葉を換えれば苦痛の一種。もちろん喜びは誰よりも与えてくれましたが。自分事はそれが当たり前と思う程の幸せを与えるからこそ、そう幸せが多ければ多い程、苦痛が目立つ、そしてその苦痛は幸せが故の苦痛だったかはその自分事が終わった後で初めてわかるのかも知れません。

他人事だから感動できる。自分事だから苦しい。"次の指導者"が最悪ではなく、常に"今の指導者"が最悪の指導者である。言葉を換えれば"次の指導者"は未来の"今の指導者"、それが故に常に次の、そして未来の指導者は最悪であり、終わった指導者のみが最悪から抜けられる。猫だって今は僕の脱ぎ捨てたズボンの上に糞された事も愛おしいですが、当時は何だこの野郎ですよ。でもだからといって今はズボンを脱ぎ棄ててもその上に糞をされない事に幸せを感じない。"ズボンに糞されようとも幸せだった。"とまで続けると指導者の話からズレるが、まぁそんなもんさ。

だが他人事だから、感動できる指導者だから、最悪ではないのです。苦痛を与える事それこそが多大な興味を持った事を示す。人間が他人事ならば滅んでも感動できるのでしょう。しかし、恐らく人間を飼わない限り私にとってのチンパンジー以上の興味を持たなかった。人間が自分事だからこそ苦痛を感じ、そして他人事であれば純粋に楽しみを見いだせると錯覚させる程の興味を持ったのでしょう。

生きるって事は本当ままならないですね。あーでも生物の本懐としての勝利達成とは自らのXXXXにおいて他から独立して生存が確定した存在か。まぁそこからは僕が何らかの経緯でゲームを作れたらシナリオに盛り込もう。真面目にゲーム作ると思想色の強いシナリオなんてうんざり(※)、入れるにしてもキッチュでスノッブなカップケーキじゃないといけないから、まぁこれもまた永遠に全部を語る事はない考えの1つだなぁ


※ 勘違いされそうなんでここはきちんと言いますが、"僕が"うんざりするんですよ

OJTってやっぱ限界あんじゃね?

プログラムを書く時、私の場合頭にアニメーションが流れます。難しいアニメーションじゃないです。プログラミングの教科書でバブルソートという技法を紹介する際、なんか縦に積まれたブロックが移動する図示があるじゃないですか。あぁいうアニメーションが頭の中に流れるだけです。もしくはタワーディフェンスゲームみたいな?

ここから未だに言語化できないのですが、何かイメージの中ではデータというデータじゃないですが、データを象徴するような何かの図形、もしくは光エフェクトみたいなものが一本の道(一本の道になるように観点を切り替える。一本道になった観点と概念の区分でイメージを作る)を通り、その中で変化したりするような、そんなイメージで書きます。

昔はライブラリとかの自分でも内部がわからないものは触れたくはなかったのですがそうは言ってられない世の中、環境構築は今でもダルイものですが、そういうブラックボックスのものを触れる事に慣れてきたらイメージの抽象度が更にあがった感じです。

イメージなんて人に教えても伝わらない、というかそういう前提のものでしょう。『ハンター×ハンター』という漫画で「念」(超能力みたいなもの)について、「念を操るイメージは人それぞれ。下手に自分のイメージを教えると逆にそれが邪魔になる」みたいなセリフがありましたがそんなもの。おそらくは言語化になる前の思考形態なのでクオリア問題のように、これは誰もが他人と分かち合う事ができないものなのでしょう(だから言語ってものは凄いんだ)。

アニメーション映像のイメージはそういう意味でどうでも良い。ただ私はアニメーションで見ている。動的に見ている。この「動的に見る」という考え方自体は間違ってないんじゃないかなと思ってます。

多分頭の中で動的にエミュレーションしやすい対象で人の得意分野ってものが決まるんじゃないかと思っているぐらいです。

ただ、私には致命的な欠点が身体能力以外にもあって、暗記が苦手なんですよね。暗記しようとすると脳が嫌がる。なんかすぐにこう「あぁなったらこぅなる奴」みたいな、スライムみたいなやつが対象を飲みこんで変質させて吐き出させるイメージ、もう少し人に伝わりそうなイメージで言えば何かの無名の変換機になっちゃうんですよね。だから、どちらかというと静的なものが苦手なだけかも知れない。動的にしか思考ができないのかも知れないです。

上記を踏まえると私が今思っている事も最終的には「人それぞれ」なんていう何も寄与しない下らない話になるかも知れないのですが……やっと主題の前提に到達した。「プログラミングが下手な人って動的に思考ができていないのじゃないだろうか」。

もう1つ観点がある。僕は油圧や空圧の回路を見た時、それは当然油や空気を乗せて流れる回路だとは理解している。しかし、どう動くはイメージできない。ITシステムでも巨大な回路になれば、ライブラリとフレームワークのおかげで思考の抽象度があがったか昔よりはイメージできるが、まぁでもやっぱわからん。動的に思考できるが全くその動きがイメージできていないだけの可能性もありますが……そもそも「動的にイメージ」しようとする発想もあるのだろうか。

僕は、父親が元SEでした。転職はしていないが在職中に部署異動してずっとSEだった訳じゃないんですけどね。SEという言葉を使っているのでコーディングをしている訳ではなく、設計書やスケジュールの作成と管理、後は電子機器のパラメータ調整をやっていた感じです(私は暗記苦手だから既存製品のパラメータ調整は苦手。やれ言われたらやるけどやりたくない)。

その為、私は高校の終わり頃に父からフローチャート図を書くための定規をもらいました(昔はあったんですよ)。別に父からプログラミングを学んだ訳じゃないです。最初のプログラミングはWolf RPG Editorというローコードのゲーム作成ツールでしたし(中学生の時クソゲーで有名な『RPGツクール4』やりましたけど。こいつのおかげで変数はすぐに「RPGツクールのスイッチで、スイッチとはフラグか」と理解できました)コーディングはこのブログにもリンク張っている「ゲームプログラミング」のT.Umezawaさんの動画で触れ、なんか一人でプログラミングしだしたのは『日経ソフトウェア』に乗ってた「HTML5でゲームを作ろう」でブロック崩しを作ってからでしたから。私のコーディングにおいて父親は全く関与していません。

ただ、そう。上記のWolf RPG Editor、Umezawaさんの私が見た動画、『日経ソフトウェア』で私が読んでいた記事では「フローチャート」なるものは教えていないのですが、それこそいつの間にか私はフローチャートの存在を知っていました。書き方は流石に勉強したけれども……あ、『新電子立国日本』というテレビ番組のなんかの回でちらっとフローチャート図出たなぁ。多分炊飯器の回。まぁ、いいや。ただ、もしかしたらフローチャートという存在を「何かいつの間にか」知っていたし考え方も誰にも教わってないのに理解できた(以前記事に書いた私が面接で下手こいて落ちた大手IT企業の筆記試験、フローチャートを初めとしたIT系の考え方の問題出てましたが楽勝でした)というのは父親の影響があったのかも知れませんねぇ。

一本道になるように観点と概念を(無意識に)調整しながらイメージ図を作り上げるってフローチャートの考え方ですしね。

前愚痴った中堅にフローチャートを書かせた時(「フローチャート」って知ってる?こんなもんなんだけどと話したら「知ってる」言われたから放置した)、正直私のSAN値が減るようなもの見せられましたからね……。私は私の人生の経歴がある(IT企業に入る前からフローチャート図書けた)から気づかなかったが、確かにフローチャート図やシーケンス図といった抽象度の高いものは、その場その場で覚えるしかない環境でした。しかも当然そんなもん知ってるよねって感じで扱われるからなぁ。今は知らないが。

Wolf RPG Editorはローコード開発で、局所的な動きを書けばゲームが作れるそれは素晴らしいツールです。そしてローコードだからこそ、正直コーディングのお作法的なものは無視して(ローコードで扱う型もStringとdoubleぐらいしかないんじゃないかな?あれ)動きだけを学ぶ事ができました。で、いつの間にか知っていたフローチャートも、あれって動きの図示ですからね。動きを考えるものだ。

私は私の人生しか知らないが……まぁいい。歴史研究家時代の私を発掘して自分にインストールするのを試みるか。周囲にサンプルがいるからコーディングから抽象的な動きを学んだのか、抽象的な動きからコーディングに移行したのかを聞いて、個人的な偏見を元にした技術力のランクと経験年数を加味して、ガラパゴス的な学びの基盤の重要度は考えてみよう。まぁ真面目にストレートに聞いても真面目に答える人間が思い当たらないから聞くための台本も考えなきゃいけないなぁ。

とりあえず、その意味で言うと私は……Wolf RPG Editorが神過ぎたなぁ……丁度いい抽象度と具象度の狭間にあって……まぁ良いツールに出会えたという経験があるものの、多分どちらかというと抽象的な動きからコーディングに移行した人間なのだと思います。

ただ、まぁなんちゅーか、何実際手動かす、つまりOJTに頼るかオフJTの期間が足りない場合は実際の作業内容の習得からしないとどうしようもないでしょう。するとそれはまぁ、具象より、コーディングとかになる訳です。抽象的なものを学ぶ機会、いいや好きじゃないものは自分では学ばない、抽象的なものを「学ばせる機会」、なんて与えられないですね。

私は人に技術を教える時、どうも「動き」、「動作」、「回路」のように考える思考ができていないんじゃないかと思っているのです。私はそういう「考えができる人間」という事でそろそろ私のいる会社内では少数派に置かねばならないなと考える程。で、私が少数派だと過程し、何が特別なのかの具体例が「フローチャート」、そしてそれを抽象化すると私の頭にあるイメージと同じで動きの抽象的なイメージを考える能力に行き着いた形です(あくまでも具体例の話に出している事象やたらめったら突いて話を混線させるバカがいるからこう言わないといけないでしょ)。

ただこうした抽象的なものは、それを作ったとしてもものはできません。だから先に挙げたどうしても作業を習得させる事に重きをおいた研修では……いや……フローチャートの講義か……多分俺受けていたら嫌になるな。

Wolf RPG Editor……ゲームも何も作りたくない奴に触らせても時間の浪費か……

あれ……どうしよう……

うん。興味ねぇものはやっても楽しくないからフローチャートのような俺がつまらないだろうなと思うものやっても良い訳か。ものはできないが抽象的な基礎的な考えはOJTじゃ難しい気がするのよねぇ。ただオフJTを長大にする場合、コストが高まるのよねぇ。

OJTに限界はあるが同時に現実問題どうしようかね。

もう1つ頭の中で何年がかりかの方針は思い浮かんだんです。この記事書きながら。まぁ僕の心の中だけにある計画にしときましょう。

別に運良く良い感じの人が入るでも良いけど、それは運ですからね。全体的に……こう基準値を上げたい……しないと今度はもっと恐ろしい限界が……

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制度と学習

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過去の自分を顧みて

私は転職を2回しています。その内の2回は、やりたい事ではなかった。多分普通の忍耐力があればやれたと思いますけどね。やりたい事ではなかった。
今の働き先はどうか?やりたい事100%ではなく、やりたくない事も多々多い。ただ自分がやりたく、またやれる事が労働内容に含まれていた。この意味で私の転職は成功していた。
なぜ最初から今の業種に付かなかったか?2010年代が私の新卒就活の時期、その頃はやはりIT業界はブラックだと言う認識が根強かった。漫画『予告犯』(2011~2013年連載、2015年映画及びドラマ化)の主人公もブラックITで精神を壊した人ですしね。 yokoku3.jpg
漫画『予告犯』(筒井哲也、集英社)より
あ、普通に現実でもあるわ
後2023年現在でも連載をされている『いきのこれ! 社畜ちゃん』も2014年に始まったコンテンツですね。 syatiku_test_43.jpg
社畜ちゃんBlog』(ビタワン)より
最近はやってもいいがやった成果を出してくれ、出せないならやるな休めぐらいに思っている
という訳で、当時の私の心境としてはIT業界というのは多少プログラミングの経験があろうとも、そこで働こうとするのは清水の舞台から飛び降りるようなもの、ダンテの『神曲』に出てくる地獄の門をくぐる気持ちだったのです。 1959-0045.jpg
ロダン:地獄の門、1880~90年頃、国立西洋美術館
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」
実際、新卒就活中大手のIT企業の面接まではいきましたが、そこで「ITはブラック」という恐れからそれに関する質問しちゃって落ちちゃいましたからね。いやぁ……

何が言いたいかというと当時の私にとってはIT業界というものはプログラミング等が好きというのは前提でありながら、そこから更にどうするか、さぁこの門をくぐるかニュースで過労死やら体壊して再就職が困難になった者の特集が組まれ、また創作コンテンツでもブラックだと叫ばれるこの業界に入るのか、という感じでした。

まぁでも全く好きの一編にも触れず……違うな前職前々職でなんかちょこちょこプログラミングに触れていたのですよ。私にとっては美術史が一番でプログラミングは2番ぐらいの好きでしたが、なんか目の前にまだ好きな物がある中でそれにアンタッチャブルな環境に置かれている事、そもそも一番の美術史には全く触れられない状況、それが酷いストレスになって、更にもう1つこれはどう考えても私以外の誰も理解できない私の根幹の事情があって転職しました。
いやよく考えると2回目の転職は私以外は理解できない根幹事情が大きかったか。誰に言っても多分理解されないし、もし私と理解を深めようとする試みであろうとも質問されても不快だし、肯定されても薄っぺらに感じて不快、外に出す意味がない根幹の事業が一番大きく転職をし、その時私の持っているカードで次の仕事を探しやすかったのがプログラミングだった。IT業界に入りたいというより、とある事情、転職というか転職でもないんだ、転職によって起こるある事が必要で転職をし、その時にまだ入りやすい業界という目算でIT業界に入ったというのが2回目の転職ですね

私にとってIT業界とはそんな感じでした。プログラミングが好きというのは前提でそれが一片でもなければ精神が瞬く間に擦り切れる。しかもプログラミングが好きであろうとも好んで入る業界でもない。そんな業界です。

だからね。この業界に来る者はある程度ITエンジニアの素養があると思っていたのです。カテゴリ違い、ソフト、ハード、インフラによるミスマッチは起きるかも知れないが何かベースとなる面ではね。ただまぁ色々あって、私も部下と接するようになり……部下、後輩とはもっと前から接していました。でも入社1年目とかそこらへんばかりでしたし、素養も何も(同僚がそうだったからこれは早々に気付けたが)業界に入る前にプログラミングやっていた人間の方が少数派だしで、まぁこんなもんかと思っていた。

ただ所謂"中堅"を見るようになってビックリして……あぁマジか、と。太平洋にカルピス一滴垂らしたような年月を過ごしたのだろうかと。教えながら「あぁ、これ俺もわからなかったなぁ」と思いながらすぐに「いや、これ俺が2年目の時に習得したやつやん」とか思ってしまって。

多分、私はIT業界を警戒し過ぎ……てはなかったな。もう無いが入社1年目の2ヶ月目かしら?なんか会社で1週間寝泊りしていたし。もうないですけどね。ウチの会社では。よー考えたら2年目とか1エンジニアとして深夜3時まで働いたからなぁ。誰の庇護下にも置かれず、俺しかいない中で。警戒はし過ぎてはいなかった。やはり地獄の門をくぐるという覚悟はあの当時は正しかった。

そう考えると業界もそうだし会社も今の状況とは違う。その中において、果たして今の中堅どころとは私の何年目社員の時と同じなのだろうか……。

言うても私は昔こき使われていて3年目からエンジニアとしてよ。手を動かす側としてよ。複数プロジェクトに参画させられたりしていたから濃い年月を追っている。こっちに思考を進めると今もなお続く憎悪の話にしか行かなくなる。やめよう。話を戻します。

とにかくIT業界を取り巻く空気と会社の環境、それらの変化によって何かギャップを感じている今日この頃です。

人に物を教える時、教える事が本業でなければ過去の自分をサンプルにしながら、「あ、ここはまったわぁ」とか「これ難しかったんだよなぁ」という当時の思いを参考にしながら教えていく事になるかと思います。ただそこに過去の"何年目の自分"というのがサンプルとして使えなくなっている。どころか何かこの仕事について認識がそもそも違うのではないか。その内、どう育てなければならないのか。タスク増幅アンプ共め。というのが最近の悩みです。

でも会社は過去の私の"n年目"を求めているのでしょう。……いや、でもあそこまでロジックができないとなると……中堅のくせに……いや多分そうだ。そうだと思う。私の1年目に満ちるか満ちないかだろう……。満たしてないと思う。
もう状況が違うのだろうな。ダンテの"地獄の門"はないんだろうな。プログラミングスクールなんて当時の俺が聞いたら、まぁなんつーか、ねぇ。神曲で例えればウェルギリウスか。ただしこの神曲にはベアトリーチェはでないしコキュートスに行って話が終わり。コキュートスにいかないようにあがく物語。そんな地獄への水先案内にしか見えなかったでしょう。

でも仕事はそう働く事は望んでいなくても、少なくとも技術力という面では、そのような時代に入った人が培うような……そんな高尚な話なのだろうか……。

正直、私はこの業界においては人に教えられた事よりも自分で学んだ事の方が多い。が、それを口に出して仕事の場では言えぬ時代でもあります。私は前職前々職は自分で勉強しろと職場で言われましたが現職はやってたから上からも言われていない。というか上から言われて自分で勉強したものがない。

私は性格と経歴から見て教育者に向いていないのかも知れません。
というか、私がそういう性格だからハマれば放置プレイでも何も思わないしその方が気楽レベルまであったが……好きにはまらなかった頃から見れば、そうね、あらゆる意味でやりたくないよなぁ。上に教えを乞うという体裁で上に仕事をやらせたいよなぁ。でも僕は好きが全くはまらなかったやつは最長で2年しか勤めてないから……。好きでもないものを中堅まで続けた人間というのは未知の領域ですね。その精神までは尊敬しますけど。
その辛抱強さまではね。
過去の自分が全く使えないわ。

鶏と科学の例え話があります。まぁ過去の経験(歴史)からその種の哲学や科学が生れる、だがちょっとしたきっかけでそのベースとなる現象が変わった時、全ての学問が瓦解するって話です。そこまで壮大な話ではありませんが、私はもう過去を使えなくなりました。そもそも後輩がいても「勝手に頑張れ」ぐらいしか思わなかったからなぁ。先輩に教えを乞う事もなかったからなぁ。先生には質問しにいったけど。もともと人に教える時に使える過去がなかったのかも知れませんね。まぁいいや。

話がいつもの如くとっちらかってますが、今回の話の結論となる感想は
2010年代と比べて「IT業界」というものが持つイメージが大きく変わったのだろうか。またそれによって入る人間も違ってきたのだろうか。
というものです。
私が今いる会社の離職率は業界全体と比べても低いので、少なくとも地獄の門をくぐる覚悟なんかなくてもやっていけるし、もう1週間会社で寝泊まりするような、1週間どころではなかったけど……毎日が林間学校みたいな感じだったが、そんな事も起きていないしで、綺麗になった分、汚い人間は減ったのかも知れませんね。
今のIT業界ってどんなイメージ持たれているんでしょう。

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今僕がせねばならぬ事

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Simeji Dali Simeji Dali

美術史を学んでいます。
専門は「日本のシュルレアリスム」ですが、20世紀美術全般に興味があります。

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